先日、育てていた鶏を、食べました。
自分で絞めて、毛を取って、捌いてお肉にしたのは、はじめてです。
教えてくださったのは、金吾さん。
忙しいにもかかわらず、付き合っていただきありがとうございました。
自分で育てた鶏を、
自分の手で殺めて、
自分で食べる。
この体験は、僕にとってはなかなか強烈的だった。
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捕まえてもジタバタするから、足と羽を縛って、逆さに吊るした。
首を切るというやり方があるらしいが、金吾さんに教えてもらったのは、嘴のなかに刃を入れて嘴の中の端っこあたりをスッと切るというものだった。
すると、吊るされている鶏は白目になり、さっきまでバタバタしていた鶏は静かになった。
そして、口から血が出てきた。
これが血抜きだ。
その後、お湯につけて毛をむしる。
意外と毛が簡単にむしれた。
毛をむしるのは、全部綺麗にむしらないといけないから、結構大変だった。
毛が完全にむしれたら、その後、包丁を使って肉をさばく。
びっくりしたことだが、鶏の毛を完全にむしると、僕らがいままで見てきた姿になって、僕のさっきまでの胸のざわつきがなくなった。
鶏として認識していた物体が、肉として認識できるようになったからかな。
この時、周りにも友達が何人かいたが、僕だけでなくて彼らも同じことを言っていた。
同じ鶏なのに、毛があるのとないのでは、人に対する印象が、こうも違うのかとすごく驚いた。
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当たり前のことだが、1羽の鶏の命からは、手羽先も手羽元も、2本しか取れなかった。
脚は2つしかないし、羽も2つしかないから。
スーパーで見るパックにたくさん詰め込まれた数百円の手羽先は、何羽の命からできているんだろうか。
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砂ずりには、砂がたくさん入っていた。
腸はめちゃくちゃ長かった。
卵になる前の卵黄もたくさんあった。
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捌いた鶏は、炭で焼いて食べた。
すごくおいしかった。
平飼いで、餌にもこだわってるからかな。
親鳥だから、歯応えがしっかりしていたが、その中にも柔らかさがあって、食べていてクセになった。
いただきます。
ごちそうさまでした。
鶏を食べる時、食べ終わったあと、自然と丁寧に口に出てきた。
そして、普段はこんな感じで言えてないなと反省した。
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昔は、多くの家庭で鶏を飼っていた。
自分で育てた鶏を自分の手で捌いて食べる。
ということは、誰もが経験することだった。
きっと、そのころは、命がもっともっと近かったはず。
今回、鶏を捌いてみて感じたこと、
命を近くに感じれば、丁寧になるということ。
僕が生活していく上で、たくさんの命のもとにその生活成り立っているということを改めて感じた時間だった。
人の役割が細分化され、いろんなものが便利になり、分断されてしまった今。
養鶏家として、ただ卵を売るだけじゃなくて、もっともっと大きな役割がありそうだなと思った。