じいちゃんが帰らぬ人となった。
3日前に葬式があった。
85年の命だった。
じいちゃんは、母方のじいちゃんで、小学校卒業するまで一緒に住んでいた。
僕は中学生になってから隣の市の父方のばあちゃんのところに引っ越しした。
引っ越したことで、住むところは離れたけれども、じいちゃんのところには頻繁に会いに行っていた。
じいちゃんは、海の男だった。
唐津の湊(みなと)という港町の漁師の家に生まれた。
じいちゃんは、県の職員で、警備船に乗っていた。
危険なこともあったらしく、中でも、北朝鮮に捕虜になった人を迎えに行く仕事は聞いててドキドキした。
命がけで、北朝鮮の湾の中へ、船で迎えに行ったらしい。
また、じいちゃんは小さいころに戦争経験してて、そのころの話をよくしてくれていた。
海に居たら、戦闘機が飛んできて、船の影に隠れて身を潜めた話とか、ご飯がなくて、芋ばかり食べていた話とか。
北朝鮮に行った話や戦争に行った話など、じいちゃんの話はいつも臨場感があって、聞いてて楽しかった。
じいちゃんは、真面目で几帳面な性格だった。
車のガソリンは常に満タンで、布団のちょっとした歪みも嫌がる人だった。
趣味という趣味は、じいちゃんには、ほとんど何もなかった。
強いて言えば、競艇の結果が載ったチラシを毎週眺めていたことぐらいかな。
その分、ばあちゃんを誰よりも愛していた。
じいちゃんとばあちゃんは、買い物に行く時も、寝る時も、いっつも一緒にいた。
オシドリ夫婦とはじいちゃんとばあちゃんのような人たちのことを言うのだと思う。
ばあちゃんは、昨年、脳出血を起こして、記憶が無くなってしまった。
コロナのせいで、ばあちゃんになかなか会いに行けなかった。
じいちゃんは、僕と一緒に、ばあちゃんの病院へリモート面会に行って
「てるこ〜(ばあちゃんの名前)!てるこ〜!」
と満面の笑みを浮かべて、全力で手を振っていた。
唯一の支えだったばあちゃんと離れ離れになったことで一気に弱っていくように見えた。
そして、今年の3月にガンがあることがわかった。
それから、どんどん容態が悪くなり、1ヶ月ちょっとで帰らぬ人となってしまった。
緩和ケアに移って3日目、じいちゃんの姿を見に病院に行った。
コロナの影響で病院に入れなかった。
外からじいちゃんを見た。
じいちゃんの吸う一呼吸、一呼吸がマイナス30度の冷気を吸うかの如く、とても痛そう苦しそうで、見ていてとても辛かった。
そんな中でも、笑いながら、僕に話しかけてくれた。
じいちゃんは家族に優しく、家族からも慕われていた。
じいちゃんともう会えないということがまだ信じられない。
現実を受け入れれてない自分がいる。
じいちゃんは、カッコよく、優しい人だった。
笑顔が思い浮かぶ。
寂しい。