枝豆を収穫し終えた。
あと少し残っているが、これは来年の種取り用として、とっておこうと思う。
さて、農業をはじめて4ヶ月が経とうとしている。
土づくりをして、種を植えて、管理して、収穫して、値段をつけて、売る。
というサイクルは一通り経験できた。
(まだどれも荒削りだけど)
これまで売ってきた作物は、少量のものを含めると、水菜、大根、とうもろこし、オクラ 、なす、玉ねぎ、ミニトマト、枝豆、ピノグリーン、ピーマン、スベリヒユかな。
この数ヶ月実際に、畑に出て手を動かしまくってみて、考えることと、やってみることの間には大きな隔たりがあることを痛感する。
いざ自分でやるとわからないことだらけだし、うまくいかないことだらけだ。
実力不足、経験不足を毎日感じる。
とはいえ、毎日、実践し続けないと、生きていけない。
何かをしないと前に進めない環境にいるので、否が応でも、正解か間違いかわからない行動をなんとか手探りで恐る恐る実践するという日々。
この数ヶ月、野菜作りをやってみて、感じたことは環境の大切さだ。
種は同じでも、育った環境によって、野菜の出来栄えは大きく変わってくる。
才能か環境か、ってよく言われるけど、
環境によってここまで大きく変わるのか?って、農業をしててびっくりする。
そして、これは人間にも当てはまるんじゃないんだろうか。
野菜も人間も、元を辿れば核酸だから。
(なんと暴論な)
野菜作りをやってて思うことは、生き物は成長するというより、適応するという表現が正しいように見える。
よく、「成長する」っていう言葉を聞くが、そのためには、環境を作ることが大事なんじゃないかなって思ったりする。
しかも、その環境は、すごく極端なやつ。
極端な環境が用意されれば、そこに適応するかのように、極端な才能が生まれてくる気がする。
生物は、きっとそんなもんだ。
野菜と同じように。
自分はどうだろうか?
それを問い直した時に、まだまだ環境づくりに対しては、甘い気がする。
環境というか、機会というか。
守りに入らずに、ちゃんと機会を作れているか?
普通は、就職することで、上司から、その機会をもらえるんだけど、僕の場合は、自分でその機会を作らないといけない。
なんか、自分で機会を線引きしている気がする。
極端な環境や機会を用意しよう、そう思った。
なんか、最近、モヤモヤしてた。
けど、そう思えた時に、ちょっと晴れた気がした。
そもそも、東京で就職せずに、田舎で農家しているのは、人々の価値観を変えたいという自分の中では大きな志だったはず。
でも、知らず知らずうちに小さくなって、守りに入って、生活のことを考えてしまっていた。
生活は大事だ。
ただ、自分が見たいのは、もっと先の景色で、こんなところで小さくまとまってしまうのなんて絶対に嫌だ。
そのためには、極端な環境を自分に課すことが必要だ。
その環境に適応して、極端な能力を手に入れたいなって思う。
とにかく、守りに入って、何も為せずに、小さくまとまってしまうのは絶対に嫌だ。